【見切りをつける】嫌われちゃったけど、それは相手の課題だったのかも

こころ

家庭でも仕事でも、人間関係は良好な方が良いですよね。
なので良好な人間関係になるようにコミュニケーションには気を付けていたし、傾聴して相手に合った言葉で伝えることを意識していました。
けれど、どんなに気を付けていてもなぜか嫌われることがあります。
そして原因を探してもはっきりした答えは見つからずに、悩んでは疲れて。
何度か経験したけれど、もしかして原因は相手にあって、自分の課題ではないのでは、と気づきました。

私、なにか不快なことをしてしまったのかな?

働いていた時のこと。
コミュニケーションは業務を円滑にするために必須で、自分でも傾聴や伝え方を学んでいたため問題が起きることはなく、むしろ気難しい方とでもコミュニケーションはとれる方でした。
職場は仕事をする場、仕事を円滑にするためのコミュニケーションと思っていたので、もちろん仕事で成果を出すようにしていました。
なので「あの人から嫌われているかも」と自分で気付くほど、職場で嫌われたことがありませんでした。

席を立ってコピー機に行く時やトイレですれ違った時、「おつかれさまです」と挨拶をすると、返事がありません
それだけであれば「聞こえなかったのかな」と思うのですが、身体ごと大きく避けられるというようなことを何度も繰り返すうちに「私、なにか不快なことをしてしまったのかな?」と思うように。

仕事での接し方も、私は席が近ければお願いは直接伝えて詳細はメールで送る、という方法をとっていましたが、その方は短文のメールを送るだけ。
私も同じようにメールで依頼してみたりもしましたが、効果はありません。

嫌いな人には、何をされても不快

思えば、自分が「嫌い」「苦手」と思った人を避けてしまうのは自然なことです。
嫌いな人に何度も挨拶されたり、接し方を変えられたりしても、そもそも「関わりたくない」のです。
その気持ちがわかるのに、私は不快な思いを何度もさせてしまっていました。

「自分に原因があるかもしれない」と思い、その原因は何だろう、解決したい、と思っていましたが、それは自己満足でした。
「そうか、私は嫌われていたから、何しても無駄だったんだ」と。
相手に不快な思いを何度もさせてしまっていたし、自分でも「また避けられた」と落ち込んでいました。

嫌われた原因は、そもそも私ではなく「相手の課題」かもしれない

自分のコンディションが悪い時、そもそも人に良く接することは難しいですよね?
それと同じように、相手もコンディションが悪かっただけかもしれません。
何か他のことで悩んでいて、愛想よく接する余裕がなかっただけかも。

そう考えてみると、そもそも私はコミュニケーションを円滑に取る努力をして、相手に自分の貴重な時間(悩んで頭のリソースまで)を使っていました。
「私はやるべきことはやった」と言えるなら、さっさと「離れてもいい」と思えるようになりました。

「相手に不快な態度をとられる」=「私に原因がある」
と考えるなんて、ある意味どれだけ自分中心なんでしょう。
私が相手にそんなに大きな影響を及ぼすことが出来ると、自然に考えていたと気付いて恥ずかしくなりました。
相手の課題を私が解決できるわけないのに、自意識過剰でした。

大切な人と楽しく過ごすために時間を使いたい

改めて考えてみると、「嫌われたみたいだけど、私の何が悪かったのかな?」と、すべきことをしているのに、さらに自分ではなく相手の課題を抱え込む時間も余裕も、私にはありません。
私が解決できるのは、私の課題だけです。

今は「あの時、原因が自分にあると勘違いして、しつこくして逆に悪いことしてしまったな」と思えるようになりました。

自分がすべきことをしたと思ったら、必要以上に関わらず、離れていきたいと思います。
「合わない」と確認したら、さっさと諦める。
そして、私の貴重な時間と余裕は、私の大切な人と楽しく過ごすために使うのが、みんなにとっていい選択だなと改めて思いました。

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